母の日に
連休最後の日、下関で妹夫婦と暮らしている母に花を贈った。メッセージカードには「元気でね」とだけ書いた。数日後、母から電話があった。「元気か」「うん、まあね」と、いつもの会話である。「家族は増えたかね?」「何か役に立ちたいと思うけど、何もできなくてね。庭の掃除でもしたらいいと思うけど、こけて動けなくなったら迷惑をかけるし・・・」などと言いながら、ポツンと「変な世の中じゃね」などと母はつぶやく。
母は、1914年生まれ、今年の秋には98歳になる。1937年の日中戦争の勃発の時は22歳、真珠湾攻撃の時は27歳、山間の村で最初に洋服を着たという彼女の青春は血なまぐさい戦争のにおいの中にあった。戦後、女性が参政権を得て行われた衆議院選挙で39人の女性代議士が生まれた時は31歳。翌年の新憲法施行の年に、2人目の子を産む。それが私だ。彼女の100年近い人生は、大きな時代の変化、変動の中にあった。
私が98歳になるのは2045年、その頃の日本はどんな様子だろう。被爆医師の肥田舜太郎先生は1917年生まれだから今年95歳、今も講演活動で全国を飛び回っておられる。その肥田先生が、いつかの会合で「みんな、100まで生きよう。生きて時代を見届けよう」と話しておられた。私もできれば、100年生きて、新しい時代への歩みを見届けたいと思ったりする。
母の日の前日の夜、家に帰るとテーブルの上に小さな鉢植えのカーネーションが置いてあった。13日には箱入りの対のマグカップがあった。同居の2人の息子がそれぞれに買ってきたものだ。今日もヨメさんと二人で小鉢の花を眺めながらコーヒーを飲む。立ったままで新聞を眺め見繕いをするヨメさんに、3人の息子たちのヨメさんはいつ現れるのだろう、と声をかけてみると「そのうちね」と他愛ない。息子たちの30年後、50年後はどんな世の中になっているのだろうか。
憲法記念日の各紙の社説を読む
5月3日の憲法記念日、マスコミ各紙は憲法を論じる社説を掲載した。
「改正論議で国家観が問われる」と題した「読売」の社説は、自民党が4月27日に発表した憲法改正第2次草案を評価し、自衛隊を「国防軍」とし集団的自衛権の行使を可能とする改憲案を「妥当な判断」とした。もっとも、自民党の改憲案は、すでに読売が社として発表した改憲案と大筋の方向は同じだから「さもありなん」という感じである。
「日経」は「国家の将来像をどう描くかも含め、憲法と真正面から向き合い改憲論議を前に進めるとき」で「憲法の館の工事に取りかかるための工程表と設計図の検討」が必要だと言う。「工事は新築ではない。増改築である。現行憲法は・・・けっこう良くできている」と言う一方で「最大の工事が9条」であり「自民党案のように自衛隊を「国防軍」と呼び、集団的自衛権の行使ができるようにしようというのは有力な考え方だ」と書く。9条「改正」は、まさに国家観にかかわるものだ。「戦争をしない国」から「戦争をする国」に変えていくような考え方を「有力」とする「日経」の主張は、増改築というようなものでなく土台や柱を取り換え、新しい設計図での建て替え、新築を求めるものになっている。
「朝日」は「われらの子孫のために」と題して、人権と貧困問題を論じ、現実の日本は将来世代やいまの子どもたちの「健康で文化的な生活を営む権利(25条)を奪っていないか」と問い「再分配の仕組みと雇用慣行を改めよう」と説く。流布される「世代間の利害対立は本当か」と問う視点は見識だと思うが、「年金の原資は現役世代が支払う保険料と消費税である」と書いたのは、消費税増税が国論を二分しているときだけに、消費税増税不可避論の呪縛にとらわれている論者の筆の走りだろう。「憲法記念日に当たり前のことを想像する力を私たちは試されている」と社説は結ばれている。人権と貧困問題を論じるときに冨の偏在を直視するという「当たり前のことを想像する」視点が欠落してしまっている。
「論憲の深化」を掲げた「毎日」は「国の形を考える上で、憲法論議は避けて通れない。日本国憲法が施行され65年のきょう、その現状を整理しあるべき姿を模索したい」と書き、「私たちは、即改憲でも永久護憲でもない「論憲」という立場を取ってきた」「平和主義、国民主権、基本的人権という原則」を生かし「時代が提起した新しい課題を憲法の中でどう位置づけるか、積極的に論議しようというスタンス」で「いずれ「改憲」や「創憲」が来ることを否定しない」として「メディアの役割は、国の基たる憲法のあり方について、論をあらゆる角度から多重に尽くし、その是非をただすことだ」と言うが、何やら、改憲論と護憲論の双方におもねる印象をぬぐえない。
私は、日本国憲法は未完のプロジェクトだと考えている。
改憲論者たちの多くはGHQ主導で現行憲法がつくられたというが、当時の日本の支配層が国体護持を第一の観念としていたのに対し、高野岩三郎や鈴木安蔵などの憲法研究会をはじめ民間では民主的な憲法草案が提案され、国際的には人権や平和にかかわる人類史の到達があり、それらが反映された現行憲法を、私は「押しつけ」憲法とは思わない。
むしろ、アメリカの世界戦略に組み込まれ、9条に関する解釈改憲や13条・25条などの具現化のサボタージュにより、現行憲法の持つ積極的な内容が抑制されてきたことを問題視する。憲法27条がありながら、若者をはじめ、まともに就職できない多くの人がいる。私と同い年の現行憲法は、いまだその本領を発揮し得ていない。いま一度、じっくりと憲法を読み味わってみることが必要だと思う。憲法が提示する平和主義、民主主義、基本的人権の内実を現代社会に生かすことこそが、いま求められていると考える。
原発事故によって「原発ムラ」の情報操作や利権構造が明になりつつある。外交や安全保障にしろ税や社会保障にしろ、支配層による情報操作、世論操作は目に余る。そのことが政治への信頼を失墜させるばかりか、秘密保全法などという法律をつくる動きまである。そんな状況にマスコミも手を貸してきたのではないか。「毎日」の社説が言うように「論をあらゆる角度から多重に尽くす」ためには、論をつくすための事実と真実を国民の前に明らかにすることが前提になる。NHKの夜9時の番組の最後に「そのニュース、核心はどこだ」という言葉がでてくる。マスコミには、さまざまな事象、さまざまな議論の「核心」を提示する力が求められるだろう。
第83回メーデーで
5月1日、北浦和公園のメーデー集会に参加した。入り口でビラをまく人に「おっ、元気だね」と声をかけ、会場をひと回りしながら「やあ、久しぶりだね」などと声をかける。県の労働関係の部課長や労働福祉団体のリーダー、国会議員、市長などとも気軽に言葉をかわす。
中央では、連合が4月28日に代々木公園で、全労連系の実行委員会は5月1日に同じ代々木公園でメーデー集会を開催、全労協も1日、日比谷公園でメーデー集会を開催した。県内では、連合埼玉が第83回県中央メーデー集会をさいたま市の鐘塚公園(4月28日)で開いたほか秩父、本庄児玉郡市、行田、羽生の4か所で地域メーデー集会が行われた。埼労連系の実行委員会は1日に北浦和公園で第83回県中央メーデーを開き、また、埼労連系を含む地域のメーデー集会は、約20か所で取り組まれた。全体では、おそらく1万5千人くらいが県内メーデーに参加したものと思われる。
1886年5月1日にアメリカの労働者が8時間労働制を要求して全国的にストライキで決起し、多くの労働者が8時間労働あるいは時間短縮の協約を勝ち取ったが、シカゴではたたかいが継続され、官憲による暴力的な弾圧とでっち上げ事件によって何人もの労働者が殺され組合の指導者は絞首刑となった(ヘイ・マーケット事件)。その後、経営者側の反転攻勢で8時間労働の協約が相次いで破棄されたが、アメリカの労働者は再びたたかいをはじめた。これに呼応し、世界各国の労働組合がパリに集まった国際会議で「すべての国々、すべての都市で、つらい仕事をしている勤労大衆が国家権力に対し労働時間を8時間に短縮するための法律をつくること」を要求し、1890年の5月1日に国際的なデモンストレーションの日とすることをよびかけた。これがメーデーの起源となった。5月1日のメーデーは万国の労働者の、国際的な統一行動日なのである。
1920年5月2日(日)に東京・上野公園に5000人が集ってメーデー集会を開いた。デモに出ようとしたが官憲の妨害があり多数の逮捕者を出した。このメーデー集会を機に、それまでバラバラに活動していた労働組合のつながりができ、労働団体相互の連携がすすんだと言われる。日本では、これを第1回メーデーとし、戦前は1935年まで毎年メーデーが取り組まれ全国に広がった。1936年の二・二六事件を機に政府は戒厳令をしきメーデーを禁止した。翌37年もメーデーは禁止され、警視庁は「メーデーは日本から永久に姿を消すだろう」との談話を出したという。戦時の10年間の中断のあと、1946年に再開となった第17回メーデーは人民広場(皇居前広場)に全国から50万人の労働者が集まった。戦後、メーデーは見事に復活し、今年は通算で第83回のメーデーなのだ。
メーデーは、その時期の労働運動の浮き沈みや労働組合組織の動きを反映する。労働時間短縮や賃金引上げとともに国民的な要求が掲げられ、それゆえに、1960年、70年の安保闘争との連動に見るように、政治スローガンが掲げられ、政治革新への一大デモンストレーションにつながっていく。労働運動の高揚期には、支配層はある程度の経済的な譲歩をしながら労働運動の弱体化を策す。それは、労働組合運動の内部の分裂策動に作用する。92年を経た歴史の中では、弾圧によって混乱したり、分裂したりしながら、労働者全体の統一を求める努力が重ねられてきた。
非正規労働の多用と雇用の不安定化によるワーキング・プアの増大、一方で長時間過密労働と健康破壊の広がりの中で、「8時間働き、8時間休み、8時間は自分のために」と叫んで始まったメーデーは、今日なおその意義は鮮明である。さらに、沖縄やTPPや消費税などの政治課題にも労働者・労働組合は積極的に向き合っていく。
メーデーは「働く者の祭典」と言われる。過去の統計を見ると、74年には全国で250万人、81年には280万人が参加している。埼玉県内でも北浦和公園には6万人くらいが参加していた。今日、全国の参加者数は100万人を割り込んでいるかもしれない。メーデーは、今も世界中で開催されている。多くのヨーロッパの国をはじめ、約80か国では休日とされ労働者はメーデーに集う。その年その年の労働運動あるいは春闘の到達を映し出すメーデーが、労働組合を持たないいわゆる未組織の労働者や、地域の勤労市民がこぞって集い、労働運動や政治革新の方向性を確かめ合う場になるといい。
劇団東演の「どん底」を観ました
埼玉市民劇場の4月の例会で、劇団東演によるマキシム・ゴーリキーの「どん底」を観た。この戯曲が書かれたのは1902年、革命前のロシア帝政末期の社会状況を映し出し、イカサマばくち打ちや元役者、自称元男爵、売春婦、まんじゅう売り、錠前屋や帽子職人、荷揚げ人足ら、様々な経路から安下宿に流れてきた人々が「それでも」生きようともがき、わずかでも明日への希望を持とうとする姿を描く。死にかけているアンナの「もっと生きていたい。あの世に苦しみがないってのなら、もっとここで我慢できるもの」というセリフが静かに迫ってくる。下宿屋の主人や警官などもからんだ些細な事件を筋書きに、宿に現れた老いた巡礼ルカの哲学的な言葉が軸になってドラマは進行し、観客に、今日の日本社会を重ね合わせながら「生きる」ことを考えさせる。
観劇の前に、買ったまま店ざらしだった角川文庫の「どん底」を引っ張り出し、赤茶けてページがバラけそうにたよりない薄っぺらい本を面白く読んだのだが、どんな舞台になるのかをイメージするのは難しかった。戯曲でも舞台でも、導入部は「入りづらい」感じがあるが雰囲気で感じ取るしかない。単純な構造物をナナメに配して幅と奥行きの深さを利用しテンポよく進行する演出は、時代を超えたリアリティを表現する工夫なのだろう。
会場でもらった市民劇場のパンフレットによると、「どん底」は明治43年(1910年)、自由劇場により「夜の宿」という題名で上演されたのが日本で最初の上演なのだそうだ。昭和11年(1936年)に宇野重吉や滝沢修らによる民芸の上演では「どん底」の名称に変わった。劇団東演では昭和41年(1966年)が初演である。
自由劇場というのは、19世紀末にフランスで起こり各国に広がった民衆演劇をめざす会員制の公演で、日本では、歌舞伎界の革新を志していた襲名間もない市川左団次(2代目)が小山内薫とともにはじめた演劇運動である。当時、坪内逍遥の文芸協会とともに新劇運動のはしりになったと言われる。
舞台を眺めながら考えた。ロシア革命前夜に「どん底」を書いたゴーリキーや、ヒットラーが独裁政権を握る直前の頃に「三文オペラ」(1928年初演)を書いたブレヒトは、今日の日本をどう描くだろうか・・・。そういえば「三文オペラ」には日本版(戦後の日本社会に置き換えた改作。開高健など)がある。14年連続で自殺者数3万人を超えるという異常な社会になってしまった現代日本を映し出す「どん底・2012年日本」と言うようなものを誰か書いてみないかなあ。
埼労連の「公契約適正化にむけての講演会」
4月18日に埼労連が開催した公契約適正化に向けての講演会は、公契約の適正化のための条例づくりの意味や取り組みの到達点がよくわかる良い企画だった。
全国初の公契約条例を制定した野田市の根本市長は、条例制定に至る経過とともに、その検証を行いつつ、業務委託における適用範囲の拡大と職種別賃金の導入、継続雇用の確保、下請け業者の請負額の改正、条例適用工事の対象額の引き下げなどについて改正を行った経緯にも触れ、今後の課題も提示した。氏は冒頭で「三位一体の改革以来、国が進める行政改革は無駄を削って新しい政策要求に応えるためとしながらも、財政再建の側面が強く出すぎ、行政運営が本来備えているべき人に対する思いやり、温かみ、優しさというものを疎かにしすぎている・・・ある程度経費がかかっても市民の必要とするサービスの質を落とさないよう工夫することが行政運営の一番のポイント」と述べた。野田市の条例は前文で国に対して法の制定を要望する旨を記載している。全国で条例化が進み、公契約法の制定に至る過程で各自治体の知恵や経験が蓄積されていくことを、期待しているようである。
講演会では、柴田埼労連議長の開会あいさつで公契約の適正化運動が広がってきた背景などが整理され、講演に続いて公契約の下で働く労働者に実態報告があり、中小企業家からの発言、日弁連・弁護士会によるとりくみの報告、宍戸事務局長からは上尾市の取り組み事例報告とともにまとめ的な発言があった。全体に欲張った感じの内容ながら、どの報告もよく整理されていた。埼労連傘下の労組や様々な運動団体の役員とともに、県やさいたま市など18自治体から行政の担当者が、21の議会から民主党、みんなの党、新しい風、三芳みらい、共産党から40人の議員が参加し、全体の参加者は200人を超えた。
私は2000年を前後する頃から、最低賃金闘争に加えて公契約賃金に関する運動づくりに関わってきた。『労働運動』誌の2002年2月号には「公契約における賃金保障への挑戦」との一文を寄稿している。2002年の秋からは埼労連として、公契約適正化などをテーマに、毎年、県内全市町村との懇談をしてきた。一昨年秋に私は埼労連の役員を退任した。昨年の暮れには『公契約適正化運動のすすめ』(労働総研ブックレット、本の泉社刊)を発刊した。そんな経緯もあるから今回の講演会は私にとっては嬉しいことであるし、とりわけ、若い藤谷君が、担当者としてこの企画をつくりあげたことを喜んでいる。
講演会の記録はDVDによるダイジェスト版がつくられるそうだ。埼玉県内では、条例まではいかなくても発注の要綱や指導文書などの方法でルールづくりが進んでいる。川崎市、相模原市、多摩市に続いての県内での条例化の動き、公契約の適正化運動の目に見えた前進に期待する。
勤労者の囲碁将棋大会・・・琴棋詩酒のすすめ
3月26日の埼玉新聞に、埼玉勤労者囲碁将棋大会の記事が見える。囲碁は埼高教OBチーム、将棋はさいたま地方法務局チームが優勝した。埼労共(埼玉県労働者福祉共済会)が主催したもので今年は7回目、埼玉新聞社、テレ玉、日本棋院県連、将棋連盟県連が後援、ろうきん県本部、全労済県本部も賞品提供などで協力した。
私が大阪で会社勤めをしていた頃は、昼休みになると工場の食堂の片隅で将棋盤や碁盤を囲む人だかりがあった。「待ったなしですよ!」と上司を叱り飛ばすものもいたし、職場で仲たがいしたばかりの輩も和気あいあいと駒を動かしていた。最近はそういう情景もあまり見られなくなっているだけに、労働団体によるこうした企画は貴重である。
4月11日の日経新聞の「春秋」欄に「琴棋詩酒(きんきししゅ)は風流人の心得」とある。琴を弾き、碁を打ち、詩をつくり、酒に親しむ。そういうたしなみが人生を豊かにする。その道をきわめるには遠くとも、ほどほどのたしなみは日々を潤わせる。
風流の自己満足だけではあるまい。琴棋詩酒は人をつなぐ。集まって歌でも歌おうとなるとギターが場を支える。縁台を出して将棋を指す人を囲み、岡目八目でなんだかんだと言い合う姿は、夏の夕暮れの風物だった。言葉をつくして愛の詩をしたためる青春もあるし、人知れず書く日記は人恋しい。人は、何かにつけて集い酒を飲む。琴棋詩酒は人をつなぐ。昨今言われる「絆」の日常的な表現でもある。
パソコンを相手に将棋を指したり、一人静かに酒を飲むということもあるが、琴棋詩酒は、やっぱり人との触れ合いでこそ楽しみだ。自前の歌声喫茶や句会などが流行るのも、人恋しいが故であろう。
労働者諸君、成果主義だの効率だの、競争に勝ち抜くことがすべてであるかのような状況だからこそ、琴棋詩酒のたしなみをもって、風流に、人と触れ合うことを大事にしたいと思うが、どうか。
引間博愛さんを偲ぶ会
5日、引間博愛さんを偲ぶ会に参加させてもらった。
運輸一般労組の委員長としての企業横断的な組織づくり、総評内での民主的潮流としての奮闘、労働組合運動の右翼再編とのたたかいと統一労組懇運動の先頭に立つ姿、全労連結成への尽力、全日本年金者組合の結成、原水禁運動での活躍などを、私は遠くから眺めていた。
一線を引いた後も、埼玉の坂戸・鶴ヶ島地域で地道な活動を続けられ、地域メーデーの実行委員長などもされて、埼労連の事務局長・議長を務めていた私のところにも、しばしば電話をいただいた。埼玉原水協の集会や会議では、引間さんが開会のごあいさつをされ、私がしめくくりのあいさつをするという風に、代表委員として並ばせていただき、その国際的な視野に学ばせてもらった。その頃の引間さんは、威張って上からモノを言うでもなく、「大きな存在」であるとともに「やさしいおじさん」でもあった。
1950年のレッドパージの際に、職場の仲間たちのたたかいで職場復帰したことを、このたび初めて聞き、現場の労働者の信頼の上に立ったすぐれた指導者だったのだな、と改めて感じいった。
終戦直後の高揚期から50年以降の反動期、総評の誕生と70年前後の国民春闘への発展、再び起きる反動攻勢と労働戦線の右傾化とのたたかい、全労連結成への歩みなどを担ったのが、戦後労働運動の第一世代とすれば、70年代の革新の高揚期から社会運動に参加し、第一世代の戦闘性に導かれながら、全労連結成とその後の運動をつくって来た私たちは、第二世代と言っていいだろう。
いま、その第二世代も、歳を重ねて労働運動の第一線からは身を引き、ふたたび地域運動や政治革新の地道な場に拠点を移し始め、新たな時代の労働運動の構築に向けた創造的な仕事は第三世代に引き継がれようとしている。偲ぶ会の閉会のあいさつをしたのが、引間先輩の労働組合運動の出発点であり原点だった建交労神田運送支部の委員長で、30歳代の、頼りがいのありそうな活動家だったのが、そのことを象徴的に表現していると思った。
第一世代を象徴する存在だった引間さん、ごくろうさまでした。ありがとうございました。
チャラ爺どもの花見
宇部高専時代に同じクラスで青春を過ごし、いま関東に散在する仲間たちで上野の花見としゃれこんだ。
桜はまだ開花したばかりで物足りなさはあるが、日曜日とあって人出は多く。ブルーシート上での宴会も若者が多く華やかである。約束の時間を過ぎ、集まった薄毛や白髪どもで上野公園をしばし散策する。途中、木陰で仲間のリュックから出てきた五合瓶2本を回し飲みするうちに、誰かが「早く行こう」と言いだす。花より団子ならぬ酒宴だというわけである。10人すべてが同い年の64才、アラ還からアラ古希への移行期にあって、長時間の立ち話では衰えた足が文句を言う。
居酒屋に向う途中、仲間たちがトイレに駆け込む間に、公園の出口あたりの出店の古物市を覗いてみると、1948年5月発刊の共産党の理論誌「前衛」27号が目に入った。目次には徳田球一の「党活動について」、中川栄吉の「産別民主化同盟の本質」などがある。私が生まれた翌年春、戦後の労働運動の急激な高揚の後、共産党の「50年問題」や産別会議の衰退に向かう複雑な時期のものということもあって買い求めてみた。
酒宴の場に予約時刻よりも15分ばかり早く繰り込んで腰を据えると、まだまだ青春を自認する仲間たちの弁が花開く。ここ数年は、年に1~2回集まって飲むのだが、卒業して40年を経ても「あのときはこうだった」「オレはこう思っていたんだ」「お前のせいでああなった」などと、初めて聞くような話が次から次に出てくる。学生時代に出入していたホルモン焼き屋の娘の話題になり「彼女は実はお前に惚れていたんだ」などと言われると、惜しいことをしたと苦笑いをしたりする。
昔話ばかりではない。Wは故郷の下関に戻って農業法人を立ち上げる計画を、Kは子会社の社長の身から転身して仙台の地域社会に骨をうずめる話をし、Mは美術大学に通っている様子を口にし、Oはこれから政治はどう動くのかと私に詰め寄ったりする。還暦を過ぎ、古希に向う年頃に、それぞれが夢を語る。花を見るというより、もうひと花咲いてみたい年頃なのである。
◇同窓会5句(小風)
●サクラ咲く薄毛白髪呼び集め
●チャラ爺にタラ爺ジャレ爺みな集い
●半世紀青春の夢まだつぼみ
●アラコキへ準備おさおさ夢語り
●オレらしく生きるぞと言うかげにヨメ
ソニー労組仙台支部の松田委員長と会いました
ある会合で、ソニー労組仙台支部の松田委員長と会い、ソニー仙台でのたたかいの話を聞いた。松田さんは、パワーリフティングでは全日本のチャンピオンにもなったことがあるそうだが、その実直な人柄は好印象だった。
震災を理由にした期間社員の雇い止め撤回を求めていたソニー労組仙台支部は、3月28日の団体交渉で、ソニーが再就職を保障し正規雇用の確保まで責任をもつことで合意した。これまで、毎月ごとの雇用延長を繰り返しての粘り強い交渉だった。当事者とその家族らにとっては、何か月もの間、不安な思いを抱えながらのたたかいであったろう。
期間社員の平均年収はおよそ270万円、150人全員の雇用を維持するのに必要な額は約4億円だ。当時のストリンガー会長兼社長の報酬は8億円、ソニーの内部留保は3兆円を超える。津波による工場の被害は、ほぼ全額が保険でまかなわれるというから、解雇を通告された労働者にとって、納得しがたいのは当然だろう。
地域では「ソニーに立ち直ってもらわないと、まち全体がだめになる」「被災した中小企業が、なんとか雇用を維持しようと必死の努力をしているのに・・・」などの声があがった。震災で被害を受けたのだからやむを得ないのでは、と思う人もいるかもしれないが、むしろ大規模な災害だったからこそ、復興を考えれば、体力のある大企業が雇用確保に努力するのは当然だろう。ましてソニー副会長の中鉢氏は、経済界を代表する復興構想会議の委員である。
労働組合の活動など経験したことのない期間社員たちが労組に加入して粘り強くたたかった。松田さんをはじめ正社員の組合員も、我がことのように一緒に頑張った。地域やさまざまな労組からの支援も広がった。ある仲間は「家族の食いぶちを守りたいと始めたたたかいでしたが、私たちの訴えは、社会の貧困問題とつながっていると気づきました」「自分自身が成長したと思います。はじめて社会にかかわり、社会は変えていけるとわかりました」と語っている。誰もが組合活動は未経験というなかで「最初は勉強不足でした。組合が何とかしてくれると甘えていた」と言う仲間は、正社員の組合員が一生懸命活動しているのを見て期間社員だけで集まり「これは自分たちの問題だ。自分たちで率先して行動しよう」と話し合ったと言う。
松田さんは、小学校6年生になる子どもさんの作文を見せてくれた。そこには「・・・体を張ってまで、たくさんの人を助ける父のすがたにあこがれ、この(父と同じ)しごとにつき、またこのようなことがおこったら父のように、たくさんの人を助けたいです。人は、自分のためだけでなく、人のために働くものだと思います」とあった。この1年、期間社員の雇い止めの問題で奔走し、家族とゆっくりする時間もほとんどない毎日だった。その父の背中を息子さんはじっと見ていたのだろう。
金星と上弦の月
数日前の夜のことである。
西の空を見ると、輝く宵の明星の真下に、上弦の月がお椀のような形で上の金星を受けようとしている。金星のまわりには、消えかかった線香花火で見るような7、8本の光の線が放射状に置かれている。まるで絵に描いたようだ。お椀のような月も、その周りを、細く輝く線状の光が放射状に取り巻いている。頼りなさげながら一生懸命さを感じさせる細い線状の輝きは、昼間吹いた風のせいで空気が澄んでいるからなのか、あるいはその逆に、何かの要因による光の屈折のわざか。・・・ふむ、と心の中でつぶやき、家に入る。
ヨメさんが帰ってくるなり、玄関の外から「ちょっと、ちょっと」と大声で呼ぶ。何事かと思えば、腕を取るなり数歩外に出て「あれ、あれ」とお椀に乗った線香花火を指さす。隣家の塀があって見えないのだが、お椀の真下には、もう一つ木星が光っているのだと言う。「感動的だねえ」とヨメさんは楽しそうだ。なぜ人は、月や星がきれいだからと言って感動するのだろう。・・・そうか、チャラ爺宣言をしたのだから、月曜、木曜、金曜と、週3回くらいは輝いてみるか、と愚にも付かぬことを呟いてみるが、ヨメさんは意に介せずひょんひょんと跳ねて家に入ってしまった。
翌日の毎日新聞の1面は、タテ一直線に並んだ金星、月、木星を東京スカイツリーに重ねた写真を掲載した。3つの星が一直線に並ぶのは04年11月以来で、次回の15年11月には火星も含めた4つが並ぶそうだ。
数年前に四国に引っ越したM君が、久しぶりに電話をかけてきた。四の五のと愚痴を言い募り、面倒な仕事から逃げもせず、それでいて夢を食べて生きているような好人物で、天文学や地学を趣味とする。あれやこれやの話のなかで星がタテに並んだ話をしたら、5月21日には金環食が見られる、この機を逃すと生きているうちには見ることはないと言う。
昔なら、皆既日食などと言えば天変地異、政変のしるしと考えるのだろう。4月危機とも6月危機と言われる政局だ。金環食を機に政治の変化が起こるなら、それはそれで、その先を見るのが楽しみでもある。
●見上げれば妙に仲良し星と月 (小風)







